
野口熊太郎茶園について
代表挨拶
当園がある茨城県猿島郡は、古くから北のお茶の産地として栄えました。関宿領主の牧野氏が始めた「さしま茶」の栽培は、天保五年に中山元成によって完成し、安政六年にハリスとの交渉により、日本で初めて海外へ輸出されたお茶となりました。
当園は、明治七年(1874年)に猿島の地で、初代 野口熊太郎が若干11歳で製茶営業を開始して以来、代々製茶業を営み、私で五代目となります。
これまで培ってきた伝統と技を守りつつ、安心・安全な商品作りと、お茶を通じて全人類の健康のお手伝いをさせていただく事をモットーに、21世紀に向け、新しいお茶文化の創造に力を注いでいく所存でございます。
今後とも、皆様のより一層のご支援、ご指導を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
五代目代表 野口富太郎


野口熊太郎茶園の歩み

利根川越しの関宿城と富士山
野口家のお茶に関わる歴史は、寛永年間(約380年前)に遡ります。
もともと猿島郡一体で、関宿城により茶の栽培が奨励されており、特に野口家本家がある一の谷では沼地があり、そこに自生するマコモを肥料として蒔くことで、旨みのある素晴らしいお茶になったといいます。
野口家も時代とともに分家が出来、三つの屋号に分かれました。唯一その当時から引き継がれたのが弊社の屋号「やまの」です。
江戸時代末期に一の谷から分家した野口佐五蔵は、蓮地(今の境町山神町)に移転し、この地で茶をはじめとする農業を始めました。
佐五蔵はやがて結婚し、1863年に息子が生まれ、熊太郎と命名しました。

初代 熊太郎
幼いころから事業意欲のあった初代熊太郎が、明治7年、若干十一歳で製茶営業開始。
手揉み製茶を扱うようになりました。主な納品先は東京日本橋浜町の岡安商店、千葉県銚子市浜町林園、古河市大半商店など、各地へ移出し関東一円に手揉み茶を卸し、年々拡大していきます。取扱量は約3万貫(112,500kg)。

二代目 松太郎
時代は昭和になり、二代目松太郎はいち早く手揉み製茶から機械製茶へ移行。陸軍省にも毎年10万貫(375,000kg)収めていました。
そして製茶問屋業としてさらなる成功を収め、「仁徳を以て商売せよ」と息子に徳太郎と名づけました。

三代目 徳太郎
第二次世界大戦後、静岡市神明町83番地日本茶業株式会社を基点として貿易が盛んになり、海外へお茶を輸出するようになりました。
昭和24年頃から昭和30年頃まで年間100万kg位取り扱い、商売をさらに盛んにと、息子に盛太郎と名づけました。


